10人で二人暮らし

解離性同一性障害で9人の別人格をもった妻との生活のほんの一面を

自己紹介みたいなもの

最初のブログを書いてから、随分経ってしまいました。

ネタは豊富にあるんですが、結論から言うと生きるのに必死でした。

主に社会保障、医療サービス、福祉サービスその他諸々のことでかけずり回り、休もうにもパートナーの状態が結構悪くて、2週間近く一緒に過ごしていたのは実は新しい別人格だったというオチまでついています。

 

前回、書きたいことだけ書いて、自己紹介のようなものをしていなかったなとずっと考えていました。

職業としては元々僕は福祉業界の人間です。ぼちぼち復帰したいと思っているのですが、今の生活を維持するのに寧ろ自分が相談支援を受ける側になっています。

「福祉の仕事をしています」と言っても、リアルでは特に「福祉=老人福祉」のイメージが強いので「引く手数多やろ?」や「どこでも働くところがある」という風に言われるのですが、分かりやすく大別しても、老人福祉、児童福祉、知的障害(児)者福祉、身体障害(児)者福祉、精神保健福祉などがあります。

僕はこれらの区別のなかで、大まかに児童福祉、知的障害児福祉、精神保健福祉が専門です。そして、完全に福祉の仕事のほうかというとまた違って、どちらかというと心理士、セラピストのような仕事を生業にしてきました。

具体的に言うと、不登校児への相談援助業務を目指していたら、いつの間にかひきこもりの研究をしていて、必要を感じて精神医学も自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)の勉強も勉強していたら、カウンセリング技能も必要になって、気がついたらソーシャルワーカーなのかカウンセラーなのかよくわからない人になっていたという感じで、自分でもよくわからない人です。

先日、自宅周辺では手に入りにくい資料を取り寄せるため、学生時代の先生に電話したところ

「とくくんってPSW精神保健福祉士)で頑張ってるんだったよね?」

「違いますよ。僕はPSWの受験資格すら持ってないですよ。取ろうにも流石に今更単位も取れないですから」と、名乗ってすぐに院生時代によくお世話をしてくださった先生が間違えるくらいなので相当です。

前回、バイトとして家庭教師をやってた事に触れましたが、学生時代とその後に副業としてやっていた延長です。院卒後に某市の教育委員会で教員のようなセラピストのような仕事をしていたので、一応「先生」でした。教員免許は持ってないです。不登校発達障害の専門家として特例で仕事をしていました。児童福祉施設で働く職員は通常「先生」と呼ばれるので、なんにせよ児童福祉の仕事していたら先生と呼ばれる人になります。

その後、過労とストレスでうつとなり、治療を受けながら、不登校児の親の会の顧問として、大学進学後から住んでいた某県全域にわたり、相談援助及びカウンセリングをやっていました。

その親の会が4年くらいで空中分解してしまい、病状も完全に回復していなかったことから実家である兵庫県に戻ってきたのが4年と少し前。

通院しながら施設職員を経て、現在です。

 

ちなみに妻とはこのときに通っていた病院で知り合いました。

 このあたりはちょっとややこしいのでまたそのうち。

 

あと、大学院時代からそうじゃないかと言われ続け、今年に入ってから正式に検査をうけていましたが、僕自身、PDD(広汎性発達障害)をもっている診断がおりました。様々な検査を総合してですが、数値化したら、80%以上の確率でPDD、WAISによれば言語性が高く動作性が低い。中でもワーキングメモリが低い。

脳をPCで簡単に例えると、CPUはi7のOC(しかしリテールクーラー)、HDDは10TB、だけどメモリが500MB×2みたいな。

取っかかりで言われたのが、「話をまとめるのがヘタ。知ってることを全部並べようとする」と言われ、前々から気にしてた所を突かれ(事実だけを言われたので、自分でちょっとずつ改めるしかない…)、かなり痛かったです。

それをなんとかしない限り、ひたすら長いエントリになってしまうのですが、ご了承ください。

随分前置きが長くなりましたので、本題はわけて別エントリにします。